【聖書でドイツ語】 わたしはあなたをいやす主である (出エジプト記第15章26節)
日々の聖句(Die Losungen)は、日本語版も入手できるが、ドイツ語の勉強も兼ねて、あえてオリジナルのドイツ語版を読んでから、日本語聖書を読むようにしている。
その Die Losungen(ローズンゲン)のサイトでは、個人向けサービスの1つとして、誕生日や受洗日などの、その当日のローズンゲンを教えてくれる。
www.losungen.de/service/ihre-persoenliche-losung/
家族や知人に贈るために有料でカードに印刷してくれるが、電子メールを送ってもらうだけならば無料だ。
ということで、私は自分の受洗日の2013年3月17日を入力して、その日のローズンゲンを送ってもらうことにした。
2日後にドイツ語の電子メールが届いた。
そして以下の聖句が書かれていた(日本語は新共同訳)。
出エジプト記第15章26節(一部)
26 Ich bin der HERR, dein Arzt.
わたしはあなたをいやす主である。
ルカによる福音書第8章47~48節(一部)
47 Die Frau verkündete vor allem Volk, warum sie Jesus angerührt hatte und wie sie sogleich gesund geworden war. 48 Er aber sprach zu ihr: Meine Tochter, dein Glaube hat dir geholfen. Geh hin in Frieden!
47 女は、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
verkünden 他動詞 (h) 1 公<一般>に知らせる,告知する,発表<公表>する. 2 = verkündigen 1
verkündigen 他動詞 (h) 1 ((雅)) 預言する,(神の教えなどを)告知する
an|rühren 他動詞 (h) 1 ((jn. / et.4)) (…にちょっと)触れる
日々の聖句はくじ引きで決められており、私が洗礼を受けた日の聖句が、この個所になった理由は神のみぞ知るである。
ただしキリスト者は、偶然と思われる出来事であっても、そこに神の御計画が現れていると考えるものだ。
私は聖書を読んで、教会で礼拝を共にするうちに、これまでの人生を振り返って、姉が障碍者である意味などを、より深く考えるようになった。
また、東日本大震災後の暗く沈んだ心に、礼拝での祈りによって明るい光が差し込んだように思え、光の道であるイエス・キリストに従う気持ちが生まれた。
まさに、神は傷ついた私をいやしてくれる主であり、洗礼前に行われた信仰告白では、イエス・キリストに出会っていやされたことを長老たちの前で話した。
そして、私の信仰告白の一部は、受洗した日の礼拝の説教でも紹介され、更に会報にも信仰告白の一部を書いたため、「皆の前で話した」のである。
実は、2013年のイースターは3月31日であり、私の受洗記念日3月17日は、その2週前である。
私の教会では、聖礼典を行うのは同じ日に1つだけという方針だったため、聖餐式のあるイースター当日には洗礼式をしなかった。
では、イースター当日の Losungen はどうだったのか、別のサイトで調べてみると、私が好きな詩編91編の4節後半と、ルカによる福音書第24章5~6節であった。
詩編91編4節の後半は、「神のまことは大盾、小盾」で、ルカによる福音書の個所はイエス・キリストが復活して墓が空だったという部分だ。
神様が私たちを守っており、そして主イエス・キリストが復活したということも、イースターの時期には確かに素晴らしい聖句だが、私の信仰告白を伴う洗礼に対しては、やはり3月17日の聖句しかなかったと言える。
しつこいようだが、イースター1週前の3月24日は、詩編119編14節 「どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように」 は、洗礼の日に合っていると思うが、ヘブライ人への手紙第13章20~21節は少し違うと感じる。
3月10日は、詩編119編81節一部 「わたしの魂は あなたの救いを求め、あなたの御言葉を待ち望みます。」と、ヘブライ人への手紙第11章1節も、洗礼を受けて信仰生活に入る時にふさわしい御言葉かもしれない。
長老会の受洗者試問会で信仰告白をした3月3日は、イザヤ書65章1節後半 「わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。」と、マルコによる福音書第15章39節一部 「百人隊長は、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」 は、信仰告白の日に合っていると思う。
これを単なる偶然と考えるのか、それとも「神様が Losungen を選び、私の信仰生活を導く御言葉を与えてくださった」と考えるのか、それが信仰者となるかどうかの違いだろう。
洗礼を受けてキリスト者になったからといって、順風満帆な人生に劇的に変わるわけでもなく、苦しみは続くものだ。
しかし、イエス・キリストに出会い、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と宣言されたのだから、苦難の先には喜びがあると信じて、この信仰の道を迷わず歩んで行きたい。
その Die Losungen(ローズンゲン)のサイトでは、個人向けサービスの1つとして、誕生日や受洗日などの、その当日のローズンゲンを教えてくれる。
www.losungen.de/service/ihre-persoenliche-losung/
家族や知人に贈るために有料でカードに印刷してくれるが、電子メールを送ってもらうだけならば無料だ。
ということで、私は自分の受洗日の2013年3月17日を入力して、その日のローズンゲンを送ってもらうことにした。
2日後にドイツ語の電子メールが届いた。
そして以下の聖句が書かれていた(日本語は新共同訳)。
出エジプト記第15章26節(一部)
26 Ich bin der HERR, dein Arzt.
わたしはあなたをいやす主である。
ルカによる福音書第8章47~48節(一部)
47 Die Frau verkündete vor allem Volk, warum sie Jesus angerührt hatte und wie sie sogleich gesund geworden war. 48 Er aber sprach zu ihr: Meine Tochter, dein Glaube hat dir geholfen. Geh hin in Frieden!
47 女は、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
verkünden 他動詞 (h) 1 公<一般>に知らせる,告知する,発表<公表>する. 2 = verkündigen 1
verkündigen 他動詞 (h) 1 ((雅)) 預言する,(神の教えなどを)告知する
an|rühren 他動詞 (h) 1 ((jn. / et.4)) (…にちょっと)触れる
日々の聖句はくじ引きで決められており、私が洗礼を受けた日の聖句が、この個所になった理由は神のみぞ知るである。
ただしキリスト者は、偶然と思われる出来事であっても、そこに神の御計画が現れていると考えるものだ。
私は聖書を読んで、教会で礼拝を共にするうちに、これまでの人生を振り返って、姉が障碍者である意味などを、より深く考えるようになった。
また、東日本大震災後の暗く沈んだ心に、礼拝での祈りによって明るい光が差し込んだように思え、光の道であるイエス・キリストに従う気持ちが生まれた。
まさに、神は傷ついた私をいやしてくれる主であり、洗礼前に行われた信仰告白では、イエス・キリストに出会っていやされたことを長老たちの前で話した。
そして、私の信仰告白の一部は、受洗した日の礼拝の説教でも紹介され、更に会報にも信仰告白の一部を書いたため、「皆の前で話した」のである。
実は、2013年のイースターは3月31日であり、私の受洗記念日3月17日は、その2週前である。
私の教会では、聖礼典を行うのは同じ日に1つだけという方針だったため、聖餐式のあるイースター当日には洗礼式をしなかった。
では、イースター当日の Losungen はどうだったのか、別のサイトで調べてみると、私が好きな詩編91編の4節後半と、ルカによる福音書第24章5~6節であった。
詩編91編4節の後半は、「神のまことは大盾、小盾」で、ルカによる福音書の個所はイエス・キリストが復活して墓が空だったという部分だ。
神様が私たちを守っており、そして主イエス・キリストが復活したということも、イースターの時期には確かに素晴らしい聖句だが、私の信仰告白を伴う洗礼に対しては、やはり3月17日の聖句しかなかったと言える。
しつこいようだが、イースター1週前の3月24日は、詩編119編14節 「どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように」 は、洗礼の日に合っていると思うが、ヘブライ人への手紙第13章20~21節は少し違うと感じる。
3月10日は、詩編119編81節一部 「わたしの魂は あなたの救いを求め、あなたの御言葉を待ち望みます。」と、ヘブライ人への手紙第11章1節も、洗礼を受けて信仰生活に入る時にふさわしい御言葉かもしれない。
長老会の受洗者試問会で信仰告白をした3月3日は、イザヤ書65章1節後半 「わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。」と、マルコによる福音書第15章39節一部 「百人隊長は、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」 は、信仰告白の日に合っていると思う。
これを単なる偶然と考えるのか、それとも「神様が Losungen を選び、私の信仰生活を導く御言葉を与えてくださった」と考えるのか、それが信仰者となるかどうかの違いだろう。
洗礼を受けてキリスト者になったからといって、順風満帆な人生に劇的に変わるわけでもなく、苦しみは続くものだ。
しかし、イエス・キリストに出会い、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と宣言されたのだから、苦難の先には喜びがあると信じて、この信仰の道を迷わず歩んで行きたい。