【聖書でドイツ語】 Amt und Beruf (務めと召命) → irdische Aufgaben (地上での使命)
私が所属するプロテスタント教会では、毎週水曜日に聖書研究会を予定している。
内容によって3種類に分けられているのだが、コロナ禍の現在は2種類に減らしている。
そのうち、私が参加している聖書研究会では、「ハイデルベルク信仰問答」を学んでいる。
実際には吉田隆訳を使って日本語で読んでいるのだが、原文がドイツ語で書かれていることもあって、たまに私に質問が来ることもある。
1563年に印刷・発刊されたものだから、現代ドイツ語のみを学んだ私にとってはハードルは高い。
16世紀ドイツ語に関する書籍やルター関連の研究図書を読む必要があるかもしれない。
それでも私にできる範囲で調べてみて、一緒に考える時間を共有している。
先日は、問124を学んだ。
問は、主の祈りの第3の願い、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」について。
その答の後半に、「務めと召命」という表現が出てくる。
16世紀のドイツ語では Amt und Beruf だ(当時の綴りでは ampt vnd beruff)。
「召命」の説明では、ドイツ語では Beruf で、「職業」と同じ単語であるという解説がよくなされる。
「天職」と和訳されることもあり、どのような職業も神から与えられたものであるという「使命としての職業」、「職業召命観」の考え方を示している。
ルターは召命と職業の両方の意味で使っていたのだが、現代ドイツ語では「(世俗的)職業」の意味の方が一般的になっている。
そのような語感が主な理由ではないかもしれないが、1997年の改訂版では、Amt und Beruf が irdische Aufgaben に変更された。
これは「地上での使命」とでも和訳しようか。
16世紀の古い表現から、20世紀後半の現代ドイツ語による表現に変わっても、「神から託された務め」という神学的な意味は保持していると思われる。
現時点ではこの程度にとどめておこう。
ルターの聖書翻訳であったり、職業召命観の話になると、大量の文献を読む必要があるから。
ところで、日本語訳は1563年版から翻訳しているので、日本人クリスチャンの方が、1997年の現代ドイツ語版を読んでいるドイツ人クリスチャンよりも、宗教改革当時の考え方を学べるということだろうか。
内容によって3種類に分けられているのだが、コロナ禍の現在は2種類に減らしている。
そのうち、私が参加している聖書研究会では、「ハイデルベルク信仰問答」を学んでいる。
実際には吉田隆訳を使って日本語で読んでいるのだが、原文がドイツ語で書かれていることもあって、たまに私に質問が来ることもある。
1563年に印刷・発刊されたものだから、現代ドイツ語のみを学んだ私にとってはハードルは高い。
16世紀ドイツ語に関する書籍やルター関連の研究図書を読む必要があるかもしれない。
それでも私にできる範囲で調べてみて、一緒に考える時間を共有している。
先日は、問124を学んだ。
問は、主の祈りの第3の願い、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」について。
その答の後半に、「務めと召命」という表現が出てくる。
16世紀のドイツ語では Amt und Beruf だ(当時の綴りでは ampt vnd beruff)。
「召命」の説明では、ドイツ語では Beruf で、「職業」と同じ単語であるという解説がよくなされる。
「天職」と和訳されることもあり、どのような職業も神から与えられたものであるという「使命としての職業」、「職業召命観」の考え方を示している。
ルターは召命と職業の両方の意味で使っていたのだが、現代ドイツ語では「(世俗的)職業」の意味の方が一般的になっている。
そのような語感が主な理由ではないかもしれないが、1997年の改訂版では、Amt und Beruf が irdische Aufgaben に変更された。
これは「地上での使命」とでも和訳しようか。
16世紀の古い表現から、20世紀後半の現代ドイツ語による表現に変わっても、「神から託された務め」という神学的な意味は保持していると思われる。
現時点ではこの程度にとどめておこう。
ルターの聖書翻訳であったり、職業召命観の話になると、大量の文献を読む必要があるから。
ところで、日本語訳は1563年版から翻訳しているので、日本人クリスチャンの方が、1997年の現代ドイツ語版を読んでいるドイツ人クリスチャンよりも、宗教改革当時の考え方を学べるということだろうか。